サイファイ・カフェSHE


La Librairie de Montaigne
(31 mai 2013)

<サイファイカフェ SHE> (Science-Philosophy Cafe SHE = Science & Human Existence) を訪問いただきありがとうございます。
<サイファイ・カフェ SHE> は、科学から生まれた成果だけではなく、科学という営み、科学を支えている精神などについて歴史的、哲学的な視点から見直しながら、最終的には人間理解に至る道を目指して、2011年11月に始まりました。
会の趣旨はこちらに、また過去の会は「これまでの会のまとめ」にあります。ご覧いただければ幸いです。 
次回の予定は以下の通りです。

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第12回サイファイ・カフェSHE

ポスター


日 時
2017年10月27日(金) 18:30~20:30

テーマ
「ミニマル・コグニションを考える」

今回はミニマル・コグニション(minimal cognition)という聞き慣れない概念について考えます。これは認識(認知、心性)を構成する最小要素は何なのかという問いに関わるもので、最初の認識能が進化のどのレベルで現れるのかという問題でもあります。この問いに対して、研究者や哲学者はいろいろな基準を出しています。しかし、それぞれの基準の枠内では認識能を有する生物とそうでないものとの境界は比較的明瞭ですが、どの基準を採用すべきなのかというコンセンサスがないように見えます。心的な活動とその進化をどのように考えるべきなのかについて講師が概説した後、参加された皆様に議論を展開していただき、懇親会においても継続されることを願っております。この問題に興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。

会 場
ルノアール・飯田橋西口店 2号室



参加費: 一般 1,500円、学生 500円
飲み物(コーヒー/紅茶)が付きます



(2017年7月28日)



会のまとめ


今回のテーマ「ミニマル・コグニションを考える」の背景になっている問題は、次のように要約できるだろう。生物が複雑でダイナミックな環境で生き、生き残るためには、 過去の記憶と情報処理を基にした決定過程が必須になる。その過程に進化圧がかかったとも言える。古くは、この過程は中枢神経系に依存すると極普通に考えられていたが、最近、それは必ずしも神経系に依存しないという見方が生まれている。それでは、この問題をどのように考え、どこまでを神経様の機能として認めることができるのだろうか。それがミニマル・コグニションの問題になる。いろいろな基準が出され、その中では神経様とそうでないものとの間に比較的明確な境界線を引くことができる。問題は、一体どの基準が妥当なのかということになる。現段階で最も説明力の高いものはどれなのかという問題である。
まず、コグニションという言葉の問題である。意識(consciousness)という言葉と対比する形でコグニション(cognition:認識)が用いられることがある。前者は、受容に関わる過程で、どちらかと言うと受動的な、かなり広い生物に求められそうなものを指すのに対して、後者は受容していることを認識するより高次の機能で、人間に限られると考える人が多い概念である。しかし、ミニマル・コグニションを問題にしている人たちは、コグニションをより基本的な神経様機能として捉えているようである。それでは、どのような見方がこれまでに提出されているのだろうか。
古くは上述したように、脳やニューロン、あるいはそれに類似の構造と機能を持つものでなければ、コグニションの機能はないと考えられていた。脳中心主義(brain-centrism)と言ってよいものだろう。これは未だに多くの支持を集めているように見える。それから、脳を離れてもコグニションはあるのだという立場もある。例えば、走化性(chemotaxis)のように、刺激の受容があり、それに対して運動として答えるという、感受と運動が連動している場合である。さらにインクルーシブになると、直接の運動の要素はないが、入力(シグナルの受容)と出力(細胞あるいは遺伝子としての反応)が明確である化学的反応あるいは遺伝子調節ネットワークもコグニションの中に入れようとする人たちがいる。類似の問題は、神経系に限らず免疫系にも存在する。すなわち、リンパ球や抗体を持っていることが免疫系の証なのかという問題である。あるいは、植物神経生物学(plant neurobiology)が提唱された時に起こった脳やニューロンが無いのになぜ神経なのかという批判にも繋がるものである。これはどこかで人間中心主義(anthropocentrism)と結び付いているようにも見える。
これらの基準を一旦決めてしまうと、その枠内では比較的問題なく「こと」は進む。それでは、どの基準が妥当なのだろうか。免疫系の系統発生学的解析から、すべての生物には免疫系があるとする見方が出ている。しかも免疫系の本質を探った研究によると、神経系との類似性、さらに言えば同一性さえ示唆される結果が得られている。他方、現代生物学の正統であるネオ・ダーウィニズムについての批判が出されている。ネオ・ダーウィニズムだけで生命の起源や進化の問題、さらにはこころの発生を説明できるのか。もしそれでは不十分だということになれば、現在の物理学と化学を用いる方法論に代わる新たな方法論が必要になるのではないかという批判である。その中の大きな問題であるこころの発生とも関連する形でコグニションの問題を考えることができないかとして議論が進められた。その過程で、免疫系についても新しい見方が提示された。
テーマがやや専門的過ぎたとの声も聞こえた。その上、新説が直感に訴えることが少ないため、戸惑いを感じた方もおられたのではないかと推測している。ただ、それ故にいろいろな議論が展開されたのではないだろうか。その点では良いテーマの選択だったのかもしれない。週末の夜に時間を割いていただき、興味深い議論に参加していただいた皆様に改めて感謝したい。


参加者からのコメント

● 刺激的なお話をありがとうございました。 情報の流れを考えると、cognitionはinput側に偏った見方かもしれません。免疫系ー神経系ともにあるoutputをすることが前提とすると minimum cognition+actionという枠で考えるほうが誤解が少ないのではないかとも思いました。こうした系がどのように生物界で生まれてくるかは次元の異なる問題かもしれませんが、現代科学のなかでタブーとも異端ともされる”生気論””目的論”を正面から持ち出して、妥当性や矛盾を議論する生物学者や哲学者がでてこないのは大変不思議な感じがします。科学史家の米本昌平先生は「バイオエピステモロジー」[2015年、書籍工房早山}の中で、”現在の生命科学の研究者は生命現象の解釈論には全く関心を向けず、すこしでも新しい実験データを獲得することに最高の価値を置く態度が共有されている”と現状分析しておられます。生命からモノを切り離してこうしてメカニズムを研究するのは生物学というよりは死物学にすぎないという痛烈な批判も米本先生はされていますが、それに抗する論拠を現役の生物学者が提示していれば知りたいと思っています。今後とも宜しくお願いいたします。
● 今回のお話を聞きながら、人間の理性の及ぶ領域は現象界に限定し、人間は、思い浮かべるしかない理想・理念を目指して実践・行為するのだ、というカントの構図を思い出しました。科学を形而上化するということは、カント以来区分されてきた体験不可能な領域、つまり可想界に分け入って、現象や物事の意味を問うということでしょうか。「認識コグニション」に関しては、矢倉先生のおっしゃった細菌のレベルまで下げて考えることの可能性など興味深かったです。私には今回のテーマの背景となる神経系、免疫系に関する専門知識が欠如してはいますが、生命とは何かという壮大なテーマにつながるのだと受け止め、面白かったです。新聞記事で、「光合成をあきらめて花実もつけず、細菌を食して生きる植物」もあると知り、不思議の感に打たれていたところでしたので、生命はいつから精神活動をしているといえるのか、植物は精神活動するとは言えないのか、などと思考してみることは刺激的です。好奇心のおもむくままに参加してみてよかったです。


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(2017年10月28日)