7-SHE 「遺伝子」


第7回 サイファイカフェ SHE
 
The Seventh Sci-Phi Cafe SHE (Science & Human Existence)
 
テーマ: 「遺伝子を哲学する」

日時: 2014年4月3日(木)、4日(金) 18:20~20:00
  
会場: カルフール C会議室
Carrefour
 
この世界を理解するために、人類は古くから神話、宗教、日常の常識などを用いてきました。しかし、それとは一線を画す方法として科学を編み出しました。この試みでは、長い歴史を持つ科学の中で人類が何を考え、何を行ってきたのかについて、毎回一つのテーマに絞り、振り返ります。そこでは科学の成果だけではなく、その背後にどのような歴史や哲学があるのかという点に注目し、新しい視点を模索します。このような営みを積み上げることにより、最終的に人間という存在の理解に繋がることを目指しています。

今回は、われわれの日常で頻繁に語られる遺伝子を取り上げます。人間は古代ギリシャの時代から遺伝に興味を持ち、アリストテレスも遺伝現象を記載しています。「遺伝子」という概念が出来上がり、それが物質として明らかにされるまでの歴史を概観すると、その明快さと華々しさのためか、遺伝子決定論が支配的な力を持つようになる過程が浮かび上がります。その流れは現在に至るまで続いているように見えますが、ここに来て遺伝子に因らないソフト・インヘリタンスの重要性が説かれ、柔軟な思想が生まれつつあるように見えます。いつものように講師が30分ほど枠組みを話した後、約1時間に亘って意見交換していただきます。


本会は無事に終了いたしました。
お忙しい中、参加された皆様に感謝いたします。
今後ともご理解、ご協力をいただければ幸いです。 


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ま と め


年度初めのお忙しい中、また初日は悪天候の中、参加された皆様に感謝いたします。
今回は、というよりも今回もまた 「遺伝子」 という大きなテーマを選んでしまいました。これまでも触れているように、最初は基本的な言葉について、その奥に眠っている歴史を紐解きながら、そこに込められている人間の思索の跡を考えるという作業をしていく予定です。遺伝現象については古代から人間は気付いていましたが、遺伝子という概念が現れたのは20世紀初頭にしか過ぎません。さらに、その構造が明らかになったのは1953年で、その50年後に人の遺伝子の総体(ゲノム)が解明されました。いずれの発見の時にもこれで遺伝の問題は解決されたと豪語されましたが、それは単に新たな「こと」の始まりにしか過ぎませんでした。
今回は、ラマルク以降の流れを取り上げ、遺伝子の概念がどのような歴史的経過を経て出来上がり、それが今変わりつつあるのかについて概観するという提示の仕方を採りました。 具体的には、ラマルクの遺伝の考え方とダーウィンの自然選択説ならびに遺伝に関するパンゲン説を比較検討し、なぜダーウィンはパンゲン説を必要としたのかについて若干の考察を加えました。それから遺伝学の始まりに位置するメンデルの法則発見と再発見、ウィルヘルム・ヨハンセンによる「遺伝子」の命名、および表現型と遺伝子型の識別、そして遺伝子型をメンデルの因子(所謂遺伝子)に限定しないホーリスティックな見方を紹介しました。
その後、遺伝を担う物質はタンパクではなくDNAであることがオズワルド・アベリーのグループにより明らかにされ、ワトソンクリックによるDNA構造の解明へと続く歴史はよく知られています。これ以降、遺伝子の定義がタンパクをコードするDNA断片とされることが一般的になり、表現型を生み出すそれ以外の要素が視界から消えることが多くなっています。もう一つは、DNAの配列に依存しない遺伝の様式(エピジェネティクス)が明らかにされつつあり、遺伝における所謂遺伝子の占める位置が絶対的なものではなくなってきています。このような流れの中、遺伝子型の定義として表現型を齎すすべての要素を含めてはどうかという提言も出されています。
ダーウィンのいとこであったフランシス・ゴルトンは "Nature vs. Nurture"と言いましたが、これまでの研究成果はその両者ともが遺伝に関わっていることを教えています。われわれが生きている過程が自分自身の未来を変えることができる可能性が見えてきたことは、われわれに勇気を与えてくれます。
今回で7回目を迎えたSHEですが、新しい方が4人に一人という開かれた状態が維持されているのは嬉しいことです。前回希望が出ていた事前の資料送付ですが、偶然にも遺伝子、遺伝に関連したエッセイを数回書いていたため、その原稿を送ることができたのも幸いでした。それから、回を重ねる毎にリラックスした雰囲気が醸し出されるようになっていて、発言がこれまでになく自然に出ているようにも感じました。今回新たに生き方を語る哲学カフェPAWLを始めましたが、そのテーマの一つが率直に語ること、社会的ヒエラルキーを超えて語ることでした。これが予想外の相乗効果を齎したと思われる積極的な意見のやり取りがあったのも悦ばしいことでした。これからも活発な議論が行われることを期待したいものです。
(4月20日追記) 今回、参加者の白石裕隆様から詳細なまとめと考察が送られてきました。ご参考までに原稿PDFを冒頭に貼り付けておきました。白石様にはこの場を借りてお礼を申し上げます。 

 冒頭部分の動画


2014年4月4日撮影


参加者から届いたコメント
●・遺伝子への関心、学問的なとらえが19世紀以降盛んになる、ということが印象に残りました。そこには何か社会的な要因やニーズ、たとえば産業革命で社会が激変しつつあるといったようなことがあるのでしょうか。
・産業革命によって、自然環境が変化し、人間の(比較的短い)一生の期間の中で、生物の変化・進化も見ることが可能になり、人々の意識に「変化する社会・環境」「それでも変わらずに継承されていく形質、だからこそ変化する形質」という観点が生じたのでしょうか。
・今回、「生物学的に動物と人間は同じ」、という意見に対して、社会学的な観点から人間と動物には(どちらが上か下かを問わない)区別は必要じゃないのか、という議論が興味深かったです。ちょっと水掛け論的な気もしますが、「生物学的に動物と人間は同じ」という意見のさらに延長線上にはどのような理論が生じるのか興味あります。人間に全能性・絶対性を求めない、人と動物との共生といったことにつながっていくのでしょうか。また同様に、「人間と動物には区別はある、必要」の意見の果てには何が出てくるのか。発言した方の本意を全く別にしますが、この「区別論」は、それぞれの差異を明確にせざるを得ず、容易に「どっちが優越している論、人間の方が高等なんだぞ論」にとりこまれそうな気配はあるなあ、という気はします。私自身も、生活実感レベルだと「人と動物は別でしょ」と思いますが、厳密性を追求する科学の世界では、ざっくりした生活実感レベルは排除、なんでしょうね。

●早速にスライドをお送りくださりありがとうございます。昨夜の会は、私が参加させていただいた過去6回の会の中で一番ホットなディスカッションを聴くことができ、大変愉快な時間でした(傍観者的な感想でスミマセン)。次回も楽しみにしております。
●どんなテーマであっても、それについて、じっくりと、大人数で議論する場をつくるというそのこと自体が大切なのだと思いました。意見が違っているほうが、活発にもなります。遺伝と進化の関係ですが、通常の遺伝子からの代謝と、進化のための新たな遺伝子あるいはエピジェネティックな遺伝子のつなぎかえ作業は、モードが違うのではないかと思います。つまり、ふつうに、日常的に生きていけるときは、普通モード、やばい、このままでは絶滅だというときは、進化モード、生命体のなかで、遺伝子発現のモードが2つあって、それが切り替わるのだと思います。今、現生人類にとっては、絶滅寸前、あるいはすでに絶滅していて、絶滅しきるまでのわずかな時間を過ごしていると思います。そのような時期に、サイファイ・カフェを開くために矢倉先生がパリから戻ってきていただいていることに心より感謝申し上げます。

●大変興味深い議論の機会を与えていただき感謝いたします。改めて、わたしが言いたかったことをいくつかまとめさせていただきます。

1 社会的存在と自然的存在の質的な差異を理論的に組み込んだ学の必要性。言い換えると、人間とその他の生物には、「質的な差異」があり、この差異を、組み込んだ学が求められるということ。
質的な差異の例として、いくつも、挙げていく中で、みなさんが反発したのは、原初的な形では、それは、猿などの他の生物にも見られるというものだったと思います。しかしながら、わたしは、そこには、ある種の「質的な」飛躍があると思います。たとえば、宗教現象をとってみても、原初的な形で、猿が「超越的な何か」を感じているという報告が仮にあったとしても、唯一神(これは人間の創造物だとわたしは考えます)や教義体系、神学、教会や寺などは造れない。ここには、明らかな「質的な差異」が存在します。道具にしても、原初的な道具は猿は造りますが、原子力までは造らない。コンピューターや宇宙船までは造らない。ここにも、質的な差異があると思います。

こうした例を挙げてゆく中で、気が付くのは、その区分が人間優位主義と結びやすいことです。この点に、みなさんは、非常に反応される。そこが、わたしには、とても、興味深い点です。つまり質的な差異として挙げる具体例が、ことごとく、「人間の方が高度で、優れている」と響くからです。では、なぜ、そう響くのか。そう響かせているものは何なのか。

そのように響かせているもの。それは現在の人間と自然の関係性全体なのではないかと考えます。つまり、自然を対象化し利用し搾取している人間と自然の関係の裏返しの反映なのではないか。

人間とその他の生物の質的な差異を考慮せずに、同一次元で議論することは、「生物学主義」という一つのイデオロギーに陥ることにならないか。そして、それは定義の操作性・恣意性(人間に都合のいい観点からの定義)と結びついて、大変高慢なことにならないか。そう危惧するものです。

2 科学の進化論という構想
二番目に、わたしが申し上げたかったのは、科学それ自体の進化論を、科学の自己反省として(ここが重要)構想することが可能ではないか、ということです。科学の進化論は、科学史とも重なりますが、わたしが言いたかったのは、科学世界の内部だけで完結したものではなく、科学の起源、科学の再生産プロセス、科学の最新局面の3つの契機を含んだダイナミックな議論です。一つ、論点を示せるとすれば、なぜ、科学は現在まで生き残っているのか。その再生産のメカニズムは何か。これは、資本主義社会という社会制度からの要請を考えないと、解けない問題だと思います。

3 進化論の3つの契機
2とも関連しますが、現在までの進化論は、生命の再生産プロセスに力点を置いたもので、生命の起源と生命の最新形態の問題へのアプローチが、弱いように感じられました。この点で、エヴァ・ヤブロンカとマリオン・ラム両博士の『4次元の進化』には、その可能性がやや含まれているのではないでしょうか。

4 時間的履歴と空間構造の相互対応
これは、自分の課題として、考えたい問題でもありますが、生命の進化論は、種の同一性を生殖の可能性に基づいて定義する、変化に必要となる時間を考慮する、種は固定されたものではなく変化する、という3要素が根底にあるのだと思いますが、これをより一般的に、「時間的履歴と空間構造の相互対応」という風に再規定することができるように思います。たとえば、原核生物と真核生物の分類は、時間履歴を前提にした空間構造の違いとして捉えることが可能です。

(参考)「『パンセ』数学的思考」吉永良正著 みすず書房 2005
これを「社会的時間履歴と社会的空間構造の相互対応」として、さらに、再規定し、人間と自然的存在の区分を組み込んだ議論として展開できないか。社会的時間の履歴とは、近代では、労働時間を意味しますし、社会的空間構造は、同じように、商品を意味します。以上を一般的に言えば、「空間には時間が凝縮されている」とも言えるわけですが、「社会的時間履歴と社会的空間構造の相互対応」に、先ほどあげた進化論の3つの契機を入れて展開するとどうなるのか。その相互対応の起源、その再生産、その最新形態。この辺りを考えると、新しい展開が出てくるのかどうか。そこに関心を持っている次第です。

昨日は、飛び入りで参加させていただきまして誠にありがとうございました。大変刺激のあるディスカッションを交わしておられる事に驚きました。さて、私の知見の浅さがが露呈してしまうのですが、直近の私の仕事のなかでゲノムサイエンスや再生医学などに触れているものを三つほどご紹介致します。今後とも宜しくお願い申し上げます。

世界初!植物の気孔を制御する(2014219日配信

細胞から組織・臓器へ 再生医療の様々なアプローチ(2013103日配信)

日焼けの原因となる遺伝子を発見!~進む日焼けメカニズム研究~(2012719日配信)
●本日は勉強になる話を聴かせていただいたり、ためになるフリートークが出来たり、とても有意義なカフェでした! ありがとうございました! 自分自身、人間を科学するとき、遺伝子配列だけではなく色々なものに目を向けなくてはならないことを改めて感じました。それはパンゲン(?)だったり、エピジェネティクスだったり、科学は奥が深く、もっと学びたいと思いました!  またよろしくお願いいたします!
●昨日は興味深いテーマとディスカッションの機会をいただきありがとうございます。遅参したためプレゼンテーションが聞けませんでしたが、予想外の盛り上がり(懇親会も含めて)になって、遅参してしまったことが悔やまれました。また、機会があれば参加させていただきます。よろしくお願いいたします。

●一昨日はサイファイ・カフェに参加させていただき大変ありがとうございました。本当に、科学と哲学の融合だと思える楽しい講義とディスカッションでした。遺伝子というと、やはり難しく、ダーウィンの唱える、まず個体は変異している。集団内の変異した個体はその後、選別されてゆくという図がありましたが、正直言って、わたしは、突然変異して進化してゆく形がどうのように動物の体内で行われていっているのか、まだ、ピンと来ていませんでした。

先日図書館で、「結末への道筋・アポトーシスと様々な細胞死」「MEANS TO AN END」 著 Douglas R.Greenを読み始めたばかりで、まだ最初数ページしか読んでいないのですが、人間の細胞は毎秒100万個の細胞が死んでいると書いてあり、私たちを形成する細胞が、常に生まれては死に、生まれては死にを繰り返している中で自らが死んでゆくアポトーシスというものに以前から関心があったのですが、オートファージ細胞死、ネクローシスという細胞死があるそうですが、細胞が死ぬと、体内の他の細胞が直ぐにその死細胞を除去するのだと書いてあります。アポトーシスが進行している細胞では、カズパーゼの活性化によってシグナルが発せられ細胞膜が崩壊する前にマクロファージなどの食細胞が誘引され細胞が除去される・・・と書いてあり、死んだ細胞が身体に与える影響は多種多様で、一個の細胞が死んでも体はその細胞のことを忘れはしない、と結んであります。一つの細胞は生存中の記憶、または遺伝的なものを、死ぬ間際に、生きている細胞にデータを伝達しているってことかしら? 読み進むとプログラム細胞死というのもあります。

死につつある細胞はシグナルを発するというのが、ダーウィンの唱えた、パンゲン説による細胞が分裂・増殖を繰り返す時、微粒子を全体に放出するという、ジェルミールと言われた粒子と関係があるでしょうか? それか、ジェルミールは、全く生まれた新しい細胞自体でそこからジェルミールを放出しているのでしょうか?遺伝というと、死んで子孫に継承していくということだと考えると、細胞死の直前のシグナルの発信がダーウィンの言わんとしているジェルミールなのかも???なんて、素人判断で考えました。間違っているかも知れませんが、兎に角、日頃考えない分野を思考する良い機会を頂き感謝致します。ありがとうございました~

●先日は、遺伝子について考える場をご提供いただきありがとうございました。異分野の方々とお話ができとても参考になりました。ディスカッションが少し短かったのが残念でしたが、そのあと、ワインとともに自由闊達にお話ができました。なにか、こうした場から新たな繋がりをベースにクリエイティブなことができればと思っています。また、次回なんとか調整して参加させていただきたいと思いますし、ご意見をいただきたいと思っていますので、今後ともよろしくお願いします。

●先日は、どうもありがとうございました。短い感想を以下に記します。「遺伝」に関して、そもそもinheritancegeneticsの双方に「遺伝」という同一の訳語を充てた明治期の翻訳が必ずしも適切ではなかった、という議論を紹介したところ、「哲学」という訳語も必ずしも適切ではないという議論があることを紹介していただきました。してみると、今回のタイトルは不適切な二つの訳語を重ねたことになるわけですが、そのタイトルに惹かれてやって来たという参加者がおられたのは示唆的でした。これらの語に魅力を感じる人間の心のありようが、遺伝学の成立過程に関与したとも考えられたからです。学問を成立過程の知的状況に鑑みて捉え直すことの大切さは、議論の中で繰り返し強調されていたことでもありました。初めての参加でしたが、このような場を起ち上げられた矢倉先生のイメージが「思索の人」から「行動の人」に変わりました。あるいは「思索」のためにはまず「行動」が必要だということでしょうか。以上、今後ともよろしくお願い申し上げます。取り急ぎ、御礼にて。

●もうパリにいらっしゃるのでしょうか。先日は楽しい会に出席させていただきありがとうございました。遺伝子の問題については、遺伝子検査というのは私はかなり侵襲的な検査と思っています。針をさすなどの検査以上に人を苦しめるものであると思っています。おそらく説明が十分なされず、あるいは十分なされても理解できないままに検査されてしまうということもありうると思います。そういう意味で、今の流れというのは問題であると思っています。次回もたいへん楽しみです。できたらまた参加させていただければと思いますが。

●先日のサイファイ・カフェSHEの後、何か感想をお伝えしたいと思いつつ、考えがまとまらないまま日が経ってしまいました。遺伝子について考えていると、つい進化論の方に興味が横滑りするのは、大学で専攻した動物系統分類学の「刷り込み」によるのかもしれません。先日の議論で面白かったのは、人間が特別な動物だというニュアンスの発言があったことでした。私にとっては、人間は近縁の動物とそれほど違わないという視点の方が馴染みがありましたので……。とはいえ、SHEのディスカッションでの的外れな発言を反省しています。そして、そもそも「哲学する」とはどういうことか、よく考えていなかったことにようやく思い至った次第です。たまたま、電気通信大の教授を定年退職後に私塾を始めた中島義道氏(カントの研究者らしい)の『哲学塾授業』という入門書を見つけて読んでみたら、どうやら哲学的思考ができるようになるには相当な訓練が必要らしいとわかり、「これは大変だ!」と焦っているところです。この本ではロックの『人間知性論』からサルトルの『存在と無』まで6冊を取り上げ、テキスト(訳書)を読みながらセミナー形式で展開する授業を再現しているのですが、そこで強調されているのは「哲学書は自分勝手に読んでも何も分からない」「哲学独特の厳密な思考方法を身につける必要がある」ということでした。まあ、自分が哲学的思考に向いているようには思えませんが、世界のあり方とその中での自分の位置づけについて、もう少しきちんと考えてみたいので、しばらく頭の訓練を続けたいと思っております。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。 

●矢倉先生におかれましては、一時帰国の上、参加者の知の「創発」・「統合」を喚起させる有意義な催しを設営していただき、有難うございました。有意義で充実した内容でしたので、時間がかかりましたが、別添のとおり当日の内容をメモにまとめてみました。矢倉先生のご判断で参加者に配信していただいて差し支えありません。これからの研究・啓発・思索活動の一層のご発展を期待申し上げますとともに、今後ともご教示の程よろしくお願い申し上げます。
4月4日の会のまとめ (2014.4.20受領)

 

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2014年4月3日





2014年4月4日





(2014年4月6日)