コンシュ・メモ

Marcel Conche
Foire du livre de Brive (7 novembre 2014)


これからマルセル・コンシュ(1922- )の書き残したものについて振り返るプロジェクトを進めることにした。最初は、昨年ご本人から推奨された自らの手になる『形而上学』をゆっくりと読み、形而上学とは何かというこの領域に入る前に抱いた最初の疑問に向き合ってみたい。(2018年1月11日)


マルセル・コンシュ著 『形而上学』(Métaphysique, PUF, 2012)を読む


プロローグ

第1章 哲学者になる
第2章 哲学者
第3章 形而上学概論
第4章 哲学的自然主義
第5章 時間、時間性、時間化
第6章 「神」に向かう確かな道
第7章 哲学の真理と現実


アルノー・プラニョルとの対談
アリオチャ・ワルド・ ロソウスキーとの対談
ディディエ・ローランとの対談


第2章「哲学者」(15- janvier 2018)

わたしは哲学的問いに向き合ってきた。他のことには心からの興味を感じなかったからだ。かりそめの恋もわたしの道をそらすことはできなかった。哲学における一つの重大な真理はコギトであると考え、デカルトについて書いた。この見方をフッサールを読んで確信した。その中には、1947年に出た『デカルト的省察』(エマニュエル・ルヴィナス訳)があった。
「すべての根源的哲学が基盤を置くべき究極の、論理必然的に確実な領域である『エゴ・コギト(われ思う)』への回帰」
この必要性の肯定がわたしの心を捉えた。すべての若い哲学者と同様、わたしも「根源的な」哲学だけを欲していた。それは「論理必然的で、それ自体として根本的な証拠」に基づいていなければならない。それは「われ思う、故にわれ在り」のものに過ぎないことは言うまでもない。フッサールは「われわれが自分自身で見ない」ものについて語るべきではないとも言った。神は見えなかったが因果律による推論で結論されたので、デカルトが神について語る時には彼に従う必要はなかった。




第1章「哲学者になる」(11-13 janvier 2018)

哲学者になるとはどういうことなのかを論じている第1章から読み始めた。その筋を追ってみたい。

普通の人は、仕事をして社会における役割を果たしている。自らの状況や人間とは何かなどの問いには向き合うことなく。それに対して哲学者は、社会から距離を取り、孤独の中にいるという選択をする。哲学者と哲学研究者との違いもここで明らかになる。哲学研究者とは学生の相手をするという社会的な仕事をしている普通の人なのである。コンシュ氏によれば、哲学とは社会の要求に応えるものではないという。人間の問題とは、もの・ことの全体における人間の意味である。現実の政治的決断や歴史には何の関係もない。

それから、哲学とは宗教が思考に影響を与えないところでのみ存在し得るとしている。そのような状態にあったのは、古代ギリシアしかない。子供の精神を縛ることなく、自由に思考できるようにしていたからである。前もって与えられた「真理」がなかったのである。その意味では、哲学者になるということは、古代ギリシア人になるということである。近代の哲学は、デカルトもカントもヘーゲルも「神学化された」哲学であった。この宗教との妥協は哲学と真理の犠牲の上に成り立ったのである。

哲学者は次のようなものから離れなければならない。欲望、名誉、金銭、栄光、意見、幸福、気晴らし。特に、パスカルの言う「気晴らし」から。哲学者の孤独は、人がいる中での孤独である。自分自身との会話があり、過去や現在の哲学者との会話もある。ご本人もいろいろな哲学者について書いてきた。ただ、読み過ぎると人文科学や博識の中に入り込み、哲学者から離れることになる。勿論、研究することを否定しているのではない。哲学的活動を阻害するものから離れよ、と言っているに過ぎない。

我々にとって、二つの世界がある。一つ世界は我々の前にあるもの、そこに開かれているもので、コギト、主体、存在、時間性、ダーザインの哲学であり、デカルト、カント、サルトル、フッサール、ハイデッガーの哲学である。もう一つの世界は我々とは関係なく存在し、我々を取り巻いているもので、他者と共にいる住まいのようなところである。存在、生成、時間、コスモス、絶対の哲学であり、スピノザ、モンテーニュ、古代ギリシアの哲学である。エゴの哲学とコスモスの哲学の二つの世界である。

哲学は現実の全体についての真理を探究する。それは制限のない無限の世界である。親や師の教えや宗教を信じていると真理の追求にはならない。制限が加わる有限の世界になるからである。デカルトの無限は神であった。スピノザもそうだったが、そこに「即自然(sive natura)」を付け加えた。わたしもそうしたい。世界は我々がいる住まいなのである。

しかし、その境界はどこにあるのか? 我々を取り囲む世界はさらに大きなものに取り囲まれている。エピクロスは我々の世界の果てを星に見た。しかし、こんにちではそれを遥かに超えるところまで行っている。

デカルトは無限という「概念」について語った。しかし、それは単なる「概念」ではない。人間は天使がその上を飛ぶように自然の外にはいないことを知っている。いつでも人間を全滅させることができる力に完全に依存していることを感じている。パスカルの「人間は考える葦である」の一節がある。
「その葦は自然の中で最も弱い。しかし、それは考える葦である。それを押し潰すためには、全宇宙が武装する必要はない。蒸気、水滴一つで人間を殺すのに十分である。しかし、宇宙がそうしたとしても、人間は殺す側よりも高貴である。なぜなら、人間は死ぬことを知っているが、宇宙は人間に対する優位性を何も知らないからである」
これは神の問題ではなく、高貴さで人間より劣る力の問題である。なぜならその力は自分のしていることを知らないからである。

主体の哲学は人間の現実の存在を捨象している。哲学者は単なる「主体」ではなく、人間を感じなければならない。自然の一部、それも考える一部であることを感じなければならない。それこそが哲学の初めである。しかし、それは初めにしか過ぎない。