14.1.14

3-SHE Sapporo 「治癒」



第3回サイファイ・カフェSHE札幌


テーマ: 病気が治るとはどういうことか

この世界を理解するために、人類は古くから神話、宗教、日常の常識などを用いてきましたが、それとは一線を画す方法として科学を編み出しました。この試みでは、長い科学の歴史の中で人類が何を考え、何を行ってきたのかについて毎回一つのテーマを選び、講師が私的なプリズムから見える世界を提示します。そこでは科学の成果だけではなく、その背後にどのような歴史や哲学があるのかという点にも重点を置きます。テーマの面から見れば、生命に関わる問題は重要な位置を占めることになると思います。
今回は病気と言われる状態の背後にある正常と病理を分けるものは何なのか、そこから病気が治癒するとはどういうことなのかについて、特にフランスの哲学者の思索の跡とともに考えます。これらの問題に入るための背景について講師が50分ほど話した後、参加された皆様にそれぞれの立場から考えを展開していただき、懇親会においても継続する予定です。

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2017年6月3日(土)、16:00~18:00、札幌カフェ(5F スペース)にて盛会のうちに終了いたしました。お忙しい中、参加された皆様に感謝いたします。

会のまとめ

最初に、サイファイ研究所ISHEの概容を説明してから始めた。そのミッションの中に、このような会をやる意味が見えてくると考えているからである。それを大掴みに言うと、科学が明らかにする事実や科学が用いている思考法は重要ではあるが、それだけでは不十分だという認識が基本にあり、そこから始めてさらに大きな知の全体に歩みを進めなければならないということである。そのためには、この国が低く見ている文系の知が欠かせない。その基本は哲学だが、この会は科学について哲学のメスを加えようとする試みとも言えるだろう。

カール・ヤスパースの言を俟つまでもなく、一般に医師はそれぞれの病気については専門家ではあるが、そもそも病気とは何かという哲学的な問いに向き合っているかどうかは明らかではない。これは現代の多くの専門家に当て嵌まることではないかと想像している。今回は、病気から逃れることができないわれわれの生を如何に善く生きるのかということにも重要な意味を持つ「治癒」ということをどのように捉えるのかという点に焦点を合わせた。

まず、その前提となる病気や健康について考えてきた哲学者の考えを振り返った。病気について考える時、自然主義的態度と規範主義に基づく態度があり得るだろう。前者はできるだけ科学的に決定できるようにするために、病気を数値で見る傾向がある。統計学は重用される。もう一方の規範主義の場合には、患者の主観や価値判断が関与するために、同じ状態が別の意味を持ってくることが少なくない。これは科学が避けようとする特徴である。同様のことは健康とか正常をどう見るのかという時にも問題になる。 

今回、特に参照にしたのはフランスの哲学者ジョルジュ・カンギレムの『正常と病理』だった。その中で、カンギレムは優れた健康を「病気にはなるがそこから抜け出すことができることで、ひとつの生物学的贅沢である」と言っている。この見方によれば、所謂病気になることと健康が矛盾しないことになる。病気から抜け出ることができれば、その個体は健康だということになるからである。点ではなく、ある時間のフレームを取って体の状態を見る必要があることを教えてくれる。

カンギレムにとって「生物学的規範性」という概念が重要で、正常な状態は統計の数値ではなく、個人が持つ生命の価値によって決められる。そして、新しい状況に合わせて規範を自ら創出できることを条件に挙げている。それは病理についても同様で、多数の個人から得た平均値では病気は評価できないと考えている。病気とは生物学的規範の消失ではなく、新しい規範を創出する機会を提供するものであると見ている。彼は次のような言葉を残している。
「病気とは望ましくないものでも、避けなければならないものでもない。それは主観的な変化であり、体の全的な作り替えである」 

「病気は生物のイノベーションであり、新しい次元の生の経験である」 
われわれに積極的に生きることを促す力強い言葉である。患者、すなわち人間は哲学することにより、新たな認識に達することができ、それによってより善く生きることができることが分かる。

規範主義者のカンギレムは、治癒について次のように考えていた。
「治癒とは、以前と同じ状態に戻ることではなく、生理的な安定状態を新たに獲得することである」  

「治癒するとは、新しい生の規範が与えられることであり、それはしばしば以前のものより優れている」
この言葉に関連して、作家のトーマス・マンは病気の意味をこう捉えていた。
「ハンス・カストルプが理解したのは、より高いレベルの心と体の健康に達するためには病気と死の深い経験を潜り抜けなければならないということである」
規範、あるいはより高いレベルの心と体の健康を見出すためには、日常的に自らの主観的な世界について観察しなければならない。それがなければ、新しい状況に直面した時に自分にとって最も自然な状態、無理のかからない状態を決定できないと想像されるからだ。その上で、自然主義に従い、科学的に自分の体の傾向について知っておくことも重要になるだろう。ただ、数値だけに頼る自然主義だけでは規範を満たすことは殆ど不可能で、完全な治癒には至らないと思われる。

病気や治癒の問題を考えて行くと、われわれの生の本質が見えてくるようである。われわれの生は、死に至る病を抱えているからである。この生を如何に生きるのかという問いに対する時、今回の思索が参考になるのではないだろうか。 


参加者からのコメント

● まず、第一に哲学というのは人種も経歴も地位も関係なく、人々に平等に学ぶ権利があるのだと感じました。私は今、通信講座でカウンセリングを勉強していて、病というのは心が支配するということに気づきました。また医学者は同時に哲学者でもあるということも勉強していて感じました。今回その延長線上のお話が聞けるのではないかと思い、参加しました。まずは『正常と病理』を読んで自分なりの答えを探究したいと思います。矢倉英隆先生、このような機会を設けていただきありがとうございます。 

● 今回、1次会では聞くのがメインだったのですが、1次会からドンドン話せると良いと思います。その際、時間が決っているのであれば予定の映像は途中で終ったとしても良いのでは? 話し合った方が有意義に過ごせそうです。 

* コメントに対する講師の感想

講師の話をどの程度の長さにするのか、試行錯誤をしてきました。最初は講師の話が短かったのですが、少し長くした方がよいのではないかという声があり、現在の形式に落ち着きました。その場合でも講師が話している時に気付いたことがあれば発言されることは問題ありません。そのコメントから議論が発展することがあってもよいと思います。形式に関してはある程度自由に考えてもよいのではないでしょうか。 

結局哲学をどう考えるかという問題に行き着くのだと思いますが、それは哲学者の数ほどあると思われます。個人的には、哲学は単に意見を言い合うものではないと考えるようになっています。意見を言う前に考えるべき対象についてある程度知ることが重要になります。そのような知識が備わっている場合には良いのですが、それがない場合には知識を取り入れた上で自分の考えを纏めるという作業が必要になります。知識を得たところで止まるのではなく、そこから考えを発展させるのが哲学で、ある対象についてどれだけ深い理解に辿り着くのかがポイントになると考えています。お配りした会の資料を基にさらに思索を深めることもできると思います。そこで重要になるのは、言葉だと思います。言葉をじっくり吟味することにより、これまで見えなかったものが見えてきたり、そこにあると思っていたものが違って見えるようになったりすることがあります。それも哲学が持っている力だと考えています。これからもいろいろな方のご意見を聞きながら、よりよいスタイルになるように変容していきたいと思っています。

● 本日は大変有意義なひとときをありがとうございました。病気とは適応である、形而上学と科学の融合の意義などの新たな視点を学ばさせて頂きました。次回も楽しみにしておりますのでどうぞ宜しくお願い申し上げます。

● 昨日は先生の呼びかけのおかげではじめての方々とお会いでき、私一人ではなく、皆さんも日々の営みの中でどう生きていくのか悩んでおられるんだろうなと感じて帰路に着きました。この様な会を開いていただきありがとうございました。

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(2017年6月5日)