6.1.14

2-SHE Sapporo 「遺伝子」



第2回サイファイ・カフェSHE札幌
案内ポスター

日時:2016年11月8日(火)、18:30~20:30
テーマ: 「遺伝子ができること、できないこと」
場所:札幌カフェ (2F会場)

札幌市北区北8条西5丁目2-3 




 一般:1,000円   学生:無料

 飲み物を希望される方は各自ご持参ください。

終了後、参加者の懇親を兼ねた会を予定しています。
参加希望の方は、she.yakura@gmail.comまでお知らせ下さい。

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第2回は生命の問題に直接関係する遺伝子を取り上げます。生命と同じように遺伝子を語りつくすことは至難の業ですが、今回は次のような問いを掲げて広く考える予定です。遺伝という現象から遺伝子という概念がどのように生まれ、その意味がどのように変遷してきたのか。遺伝子は何をしていて、何ができないのか。遺伝子が運ぶ情報とは何なのか。最近注目を浴びている「遺伝子を超える遺伝」のメカニズムが意味するものは何なのか。その他、倫理に触れるテーマもあります。これらの問題に入るための背景について講師が40-50分話した後、参加された皆様にそれぞれの立場から考えを展開していただき、懇親会においても継続する予定です。興味をお持ちの方の参加をお待ちしています。

(2016年8月21日) 


会の纏め

今回は会の直前に参加できなくなった方から連絡が入りどうなるのかと思っていたが、飛び入りの参加が二名あり、最終的には丁度良い人数に収まった。と言いたいところだが、この会はどのような状態でも想像もしないような展開になるので、「丁度良い」状態はこれだということは実際にはないと考えるようになっている。どのような状態においても、不思議な空間が生まれてくることが分かってきたからである。  

講師の話はサイファイ研の活動と目指すところの説明から始まり、1時間ほどに及んだ。今回は遺伝子という膨大な蓄積が宿った言葉を取り上げたが、そのすべてをカバーすることは不可能であり、それを扱う人によっていろいろな切り口が考えられる尽きないテーマと言ってもよいだろう。実は、このシリーズで取り上げてきたテーマはいずれもそういう性格のものであった。さらにじっくり見直せば、殆ど全ての言葉が同じような宿命を背負っていると言えるだろう。  

今回の講師の視点は、遺伝子という言葉の背後に隠れている歴史的な事実を掘り起こし、そこから見えてくる問題点やこれからの課題を明らかにするというものであった。科学はこのような視点を採らない。科学が扱う遺伝子は具体的なこれこれの遺伝子であり、その興味は遺伝子がどのような構造をしていて、どのように活性化が調節されているのか、さらにその機能は何なのかという「いま・ここ」の問題(進化を扱う場合もあるが)を解決し、望むらくは病的な状態に対する治療法に結びつく成果が得られないかというところにあるからである。その意味で、歴史的視点は科学の現場に直接役に立つという性質のものではなく、寧ろ科学者の教養、科学に内在する文化的な側面を支えるものと言えるだろう。

講師が提唱している「科学の形而上学化」という営みは、現代科学の立場から見れば、矛盾を含んだものと言えるかもしれない。なぜならば、現代科学は形而上学を乗り越えてその地位を確立したからである。しかし、そこに留まる限り、科学は文化にはなり得ない。歴史や哲学を含めた人間誰もが持っている思考方法を動員して科学の成果について論じるという営みによって初めて、科学「について」われわれが考えることができるようになるからである。   

今回、改めて歴史を振り返る中で、例えば、ダーウィンが1868年に提出したパンゲン説のような大胆な仮説を、遺伝という現象を説明するための大きな枠組みとして提供しようとする人たちがいたことが分かってくる。そして、このような試みが大切なものに見えてくる。たとえそれが間違いであってもである。このような説は現代の科学の教科書に出てこない。間違ったものはすぐに捨て去られ、前にどんどん進んでいくのが科学だからである。それ故、科学以外の領域が科学「について」考える場合に不可欠のものになるのである。   

分子論的な遺伝子の定義によれば、蛋白をコードするDNAの断片ということになるが、それが一対一で蛋白の産生とは対応していないことが明らかになっている。実際の現場では、遺伝子型から表現型への道は複雑なものが絡み合っていて、蛋白をコードするDNA断片があったとしても直ちにその蛋白が発現するという保証はないことになる。一対一の対応を求めるとすれば、現在の遺伝子の定義を変えなければならないことになる。ただ、それによって得られるものがどれくらいあるだろうか。今後の展開を見てみたい。   

ヒトの遺伝子を自在に操作できるようになると、倫理的な問題が出てくるという指摘があったが、今回はそこに踏み込む余裕がなかった。これは大きな問題なので、回を改めて考え直しても良いかもしれない。これ以外にも医学の臨床においては倫理や哲学を動員しなければ解決されない問題が増えている。つまり、医学や科学だけではヒトの病に向き合うことができないことを意味している。医学の学会や現場において、哲学がどのように扱われているのだろうか。参加者のお話を聞きながら、この領域について真剣に考え直す必要があるという印象を持った。以前にエッセイのエピグラフにしたこともある言葉が蘇ってきた。アメリカの外科医デントン・クーリーさんの言葉である。

「医科学の中心をなす概念について、哲学的に考え抜いて得られた知識や経験がないかぎり、より良い結論や政策には辿り着けないだろう」  


参加者からのコメント 


● 相変わらずactiveな先生を拝見でき嬉しかったです。また、素晴らしい講演ありがとうございます。スライドありがとうございます。とてもためになります。またお会いできること楽しみにしております。   

● 昨日は楽しい会をどうもありがとうございました。日頃から馴染みのある分野でしたので、尚の事楽しい時間でした。次回も楽しみにしております。   

● 昨日はありがとうございました。哲学は目に見えないものを扱うという形而上の領域である一方、科学は目にできる事実を解明するといった形而下の領域、その二つが一見対立してるようであるけれど、本当の真実を知るためにはその二つのアンチテーゼが必要ではないかと考えるようになりました。私は将来、神経科学を専攻したいのでその双方を学ぶ必要があると感じ、今回哲学的な思考を考える機会を与えてくださり、すごくためになりました。次も是非とも機会があれば参加したいです。今後ともよろしくお願い致します。   

● 先日はお疲れさまでした。楽しく議論をさせて頂きました。


 
フォトギャラリー


この写真は長谷川公範氏の撮影による


(2016年11月9日まとめ)