1.9.11

マルクス・アウレリウスの声を聴く


L'Œil de l'Oubli (1995-2010)
Anne et Patrick Poirier (1942- , 1942- )


先日、古代ローマ帝国五賢帝のお一人マルクス・アウレリウス (121-180) の 「自省録」(神谷美恵子訳) を手に取り、そこから聞こえる声に耳を傾けた。


--------------- **** ---------------


「まことに人生において出遭う一つ一つのものについて、組織的に誠実に検討しうることほど心を偉大にするものはない。その対象がどんな宇宙にたいしてどんな効用を持っているのか、全体にたいしてどんな価値を持っているのか、人間にたいしてどんな価値を持っているのかを考察し、それが何であるか、どんな要素から構成されているか、現在私にこういう印象を与えているこの対象はどれだけの間このままで存続するか、これにたいしては私はいかなる徳を必要とするか、――たとえば優しさ、雄々しさ、真実、信義、単純、自足、その他――等以上の点を考察しうるように、常々そんなふうに個々の対象を見ることほど心を偉大にするものはないのである」


「すべてはかりそめにすぎない。おぼえる者もおぼえられる者も」


「あたかも君がすでに死んだ人間であるかのように、現在の瞬間が君の生涯の終局であるかのように、自然に従って余生を過ごさなくてはならない」


「自分の内を見よ。内にこそ善の泉があり、この泉は君がたえず掘り下げさえすれば、たえず湧き出るであろう」


「高処から眺めよ。無数の集会や無数の儀式を、嵐や凪の種々な航海を、生れ、共に生き、消え去って行く人びとの有為転変を。また昔他の人びとによって生きられた人生、君の後に生きられるであろう人生、現在野蛮民族のところで生きられている人生を思い見よ。どれだけの人間が君の名前を知らないことか。どれだけの人間がそれをさっさと忘れてしまうことか。どれだけの人間が現在たぶん君を讃えていながら、たちまち君を悪くいうようになるであろうことか。記憶も、名声も、その他すべていかに数うるに足らぬものであることか」




「宇宙がなんであるかを知らぬ者は、自分がどこにいるかを知らない。宇宙がなんのために存在しているかを知らぬ者は、自分がなんであるかを知らず、宇宙がなんであるかをも知らない。しかるにこのような問題を一つでも等閑に付しておいた者は、自分がなんのために存在するかいえないであろう。しからば、自分たちがどこにいるかということも、何者であるかということも知らないで (むやみに) 拍手喝采するような連中の (非難を避けたり賞賛を求めたりする) 人間 --- こういう人間を君はどう考えるか」


「何事が君に起ころうとも、それは永遠の昔から君に用意されていたことなのだ。そしてもろもろの原因の交錯は永遠の昔から君の存在とその出来事を結び合わせていたのだ」


「眼前によこたわるものの一つ一つを注意深く眺め、それがすでに分解しつつ変化しつつあり、いわば腐敗と分散の状態にあること、またあらゆるものはいわば死ぬために生れるのだということを考えよ」


「健全な目は、なんでも見える物を見るべきであって、『私は緑色のものが見たい』 などというべきではない。これは目を病む者のいうことだ。同様に健全な聴覚と嗅覚は、聴きうべき、また嗅ぎうべきあらゆるものにたいして用意がなくてはならない。また健全な胃の腑はあらゆる食物にたいして、ちょうど挽臼がすべてを挽くようにできている穀物にたいして用意があるのと同じようでなくてはならない。さらにまた健全な精神もあらゆる出来事にたいして用意がなくてはならない」


「君に残された時は短い。山奥にいるように生きよ。至るところで宇宙都市の一員のごとく生きるならば、ここにいようとかしこにいようとなんのちがいもないのだ。真に自然にかなった生活をしている人間というものを人びとに見せてやれ。観察させてやれ。もし彼らに君が我慢ならないなら、彼らをして君を殺させるがよい。彼らのように生きるよりはそのほうがましだから」




マルクス・アウレリウス共振 " Pensées pour moi-même " de Marc Aurèle (2010-11-03)
マルクス・アウレリウス MARC AURELE SE MET A ECRIRE A 50 ANS (2005-10-09)


(2011年10月11日)