21.11.10

日仏および文理思考比較、そして鈴木大拙的努力

L’Homme qui marche I
Alberto Giacometti (1901-1966)


先日の「世界哲学デー」で挨拶に立ったフランス国民教育相のリュック・シャテルさんは、演壇の横にあったジャコメッティの「歩く男」の像を示しながら次のようなことを話していた。
「この像は人間の弱さを表していると言われますが、人間が歩くという姿は道行き、旅そのものである哲学の姿と重なるのではないでしょうか」
彼の下にある国民教育省が理性と伝統に基づいて考え抜いた末、これからのフランスをより強いものにするために哲学教育を充実をすることを決めた。新しいことを実行するまでの過程をごく当たり前にこなしている様を見て、頭の中がすっきりした。翻って日本の状況を見るとどうだろうか。同質のことが行われているかと問われれば、悲観的にならざるを得ない。明治以降、西欧のやり方を積極的に取り入れて今日の日本になったが、肝心の精神の運動まで消化吸収する余裕はなかった。そのつけは大きく、未だに尾を引いているように見える。確かに、日本や東洋には独自の文化があり、西洋式のやり方をそのまま取り入れるのは問題だという意見もあるだろう。しかし、この機会に考え直してみたい。
まず彼らが哲学教育の基本に据えた三本柱は以下の通りだ。

1)言葉を正確に使うこと(これは語彙だけではなく、構文も含む)
2)人類の偉大な遺産を読み込むこと
3)論理的な思考と討論に習熟すること
この中の言葉を正確に使って考えるということはどのように捉えられているだろうか。日本文化には言葉では説明できないことがあり、それがよいところだという考え方もある。しかし、譬えそうだとしてもそこで止まっていてよいだろうか。まずその日本特有の状況を表現しようとすることがなければ相互理解は難しいだろう。外に開くという時、単に物が行き来すればよいというのではなく、そこで行われている精神活動が外に開かれることがなければ未開の国と変わらない。そこを訪れた外国人がその状況を相対化して紹介するというこれまでと変わらない状態が続くことになるだろう。外から見ていると、このことがより強調されてくる。日本の、そして東洋の精神を西洋の理性の枠組みに置き換えて説明しようとした鈴木大拙的な努力はこれまで以上に求められるだろう。この点についての認識が政治家にも専門家にも乏しいように見える。例えば、文系の世界に入って気付いたことに研究成果の多くが日本語で発表されていることがある。譬えそれが日本特有の問題であれ、外国語で発表するという了解がされていないように見える。まだ経験が浅いので正確な観察ではないかもしれないが、、

この問題の解決は最終的には教育になるのだろう。われわれの社会をどのような方向に持って行くのかを決める時、真に自由で開かれた精神による論理的な討論を行う必要がある。そのためにはフランスも力を入れるという訓練が求められるだろう。外に開くというとすぐに小学校から英語を、となるが、英語を求めるのはむしろ専門家に対してではないだろうか。そして、言葉とともに精神を磨くことがその基礎に据えられなければないはずである。この重要性に気付き、それを現実のものにする歩みを始めなければ、これからの一世紀も日本は埋もれたままでいるような気がする。



この週末、暇にまかせて日本記者クラブで行われた講演会を見てみた(こちらから)。演者はオランダのジャーナリスト、カレル・ヴァン・ウォルフレンさん。彼の本では「人間を幸福にしない日本というシステム」(1994年)というのを出たばかりの頃に読み、頭の中がすっきりした記憶がある。

彼(ら)の話を聞くと、なぜすっきり感が襲うのだろうか。ひとつには、そこに大きな枠組みのようなものがあり、その中にいろいろな現象が位置付けられているように見えることが挙げられる。それと日本のメディアに接しているだけでは伝わってこない事実や視点が示され、現実を見る目に曇りがないように見えることも大きいだろう。その態度にはものごとを少し離れて見た後に自らの頭で考えようとする哲学的なところが見て取れる。また、日本のジャーナリストには感じることのない independent mind も見ることができる。

なぜ日本のマスメディアはこの基本的なことができないのだろうか。その大きな問題は、何が事実なのかを最初に徹底的に明らかにしなければならないという意識が希薄なこと、それからその事実をどのように見るのかという広く言えば世界観が確立されていない、あるいはその視界が狭いことがあるような気がしている。 科学の経験があれば、最初のデータを集める段階が重要で、それが信頼できるものかどうか、それをどう解釈するかがその後を決めることになるのは自明のことである。しかし、それが文系の世界、日常のレベルでは行われていないように見える。ここで言うところの科学精神の欠如の一つの現れになる。それを理解していないのか、それはさておき自らの役割はある考えを進めるために動くことだとでも考えてやってきたための習い性なのか。理性的で論理的な判断が可能になるのは、現実がどういうものなのかが炙り出されていることが条件になる。この当たり前のことがなぜできないのか、不思議である。それができた上で初めて冷静で創造的な議論が始まらなければならない。政治は理論ではない、現実は理論通りに動かない、と言うのはこれらができた後の話になるだろう。道は長く険しく 見えるが、今やるべきことは当たり前の至極単純なことのはずである。

(2010年11月21日)